通化事件
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通州事件」とは異なります。
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旧満洲国通化省通化市(現吉林省通化市)

通化事件(つうかじけん)とは、国共内戦時期の中国東北部(かつてのいわゆる「満洲国通化省通化市)で、当時の中華民国政府国民党)軍側と共闘した日本人らによる武装叛乱蜂起と赤十字病院襲撃の失敗事件である。多くの日本人が犠牲となり、最大で3000人以上が死んだとされる。

通化は1946年2月3日当時、すでに実質的に中国共産党軍側によって占領されていた。失敗後の鎮圧過程で中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊、新八路軍)による中国国民党員や日本人らに対する制圧・逮捕・取調べ・判決・刑執行において、多数の冤罪・虐待や虐殺があったとされる。日本人犠牲者数について諸説あるが、少ない説で武装叛乱戦闘とその後の「処分」との合計で約800人、多い説では約3000人の死者が出たとされ、その中には蜂起に参加さえしていなかった一般市民もいたとみられる[1]

中国では通化二・三事件[2]などと呼ばれる。
当時の中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍「朝鮮義勇軍」および「東北民主連軍」も参照

当時、先に進駐していた朝鮮人民義勇軍(李紅光支隊)と延安からの正規の中国共産党軍を中共軍または八路軍と包括的に呼称した。ただし、中ソ友好同盟条約によって満洲で中国共産党が活動することは許されていなかったため、東北民主連軍などと称していた。彼らはもともと満洲で中国共産党によって設立され、抗日活動していた東北抗日連軍の残党がソ連の後押しを受けて再編されたもので、延安の本部とはなかなか連絡がとれず、1945年10月にようやく延安本部との合併が決まった[3]。延安の八路軍に対して日本人は彼らを新八路と呼んでいた。
背景中華民国政府に降伏する日本軍(1945年9月)
当時の通化の状況

通化は第二次世界大戦/日中戦争の終戦時に中華民国政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満洲国軍や満洲国警察が転籍した中華民国政府軍によって統治されていた[4]。通化市はもともと日本人8千人[5]を含む、複数の民族が居住する人口14万人の都市であった。ソ連進攻に対応した日本兵の集中や大勢の日本人難民の到来により日本人が増加し、日本系大企業の寮・社宅やそれまでに設営されていた軍関係の施設さらに料亭等に収容するだけでは足りず、日本人で広い屋敷・住居を有する者の邸宅のほか、狭い満洲式の建物に住む日本人のところ、1945年8月18日に通化国民学校に設置された避難民収容所にも分散して収容させた。通化に避難してきた女性たちは顔に泥やススを付けて坊主頭にして男物の衣類を着ていた者や、麻袋に穴を空けたものに縄帯したものやぼろぼろの姿の者もいた[6][7]。居留民会が結成され、軍の貯蔵物資を利用したほか、通化の在留邦人から衣服等が提供された[6]。武装解除された日本兵は次々と吉林、次いでシベリアへと送られていった(シベリア抑留[8]が、同年8月13日に発生した小山克事件に巻き込まれた避難民も到着しており、日本人の人口は1万5千人とも一時は3万人になっていたともされる。なお、10万人の難民が滞在していた[9]とする説もあるが、1945年12月末の中国側資料による通化市の日本人の人口は1万6千人[5]とされる。(なお、もともとの居留民の2?3倍の難民を受け入れた後、さらに500?600名の難民の受入要請がソ連軍から来た時には、これ以上受け入れれば共倒れになるとして、当初通化市側は受入に大変な難色を示している[10]。)

既に終戦前から反日運動の地下工作が全満洲に行きわたっており、国民党・共産党ともに通化に浸透していた。もともと満洲では、日本や日本軍の南方での戦いのために全土で食糧の供出割当が強制的に押しつけられ、当の生産した農民には豆粕が配給され、それも日本人優先で満人・朝鮮人は後回しにされるという状況であった[11]


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